今回、私は初めて名作と呼ばれる小説を学校教育の一環としてではなく、人生観を変える契機としての一冊として読んだわけだが、やはり文豪と呼ばれる夏目漱石の作品の中でも世間で特に高く評価されている「こころ」は、考察の余地が十二分にあり、不変的な人間の本質を私たちに提示している。その中でもとりわけ多くの人が論文などで検討してきたKと先生の死因の解釈と夏目漱石の思想を時代背景の見地から卒業作品として書き表す。
まず、Kと先生の死因を本文から考察するとそれは孤独感にあると私は考える。Kに関していえば、自分の生涯をかけて進んできた道に反しお嬢さんとの恋を成就させようとした利己的な行動によって自己矛盾に陥り、さらに唯一信頼を置いていた友人であった先生にまでも裏切られ孤高の寂しさを身に染みて感じることになった。また、先生に際しては、祖父に裏切られ、孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みて、親友のKを同じ孤独の境遇に突き落とすまいと倫理観を重んじてきた善良な生き様に反し、お嬢さんを独占しようとする欲のために親友を裏切り、自殺させてしまったという人間の罪を最愛の妻にすら伝えられないという孤独感を抱えることになる。これらの共通点としてどちらも利己的な行動を起こした果てに精神的苦悩を抱えるという過程があげられる。
こうした作品の登場人物の内面には作者の内面が投影されているはずだ。「こころ」の本文からだけでは、Kや私の死因は読者それぞれの解釈によって異なるため、より明確にKと先生の孤独感について理解するために、夏目漱石が生きた明治の人々の孤独感を探ることにする。当時、日本はヨーロッパの近代化に影響を受け資本主義社会を形成した。資本主義社会において人々は、個人の自由や平等を獲得できた反面、国家や家族から独立した存在であるという孤独感と対峙することになる。そして、この孤独感こそが明治を生きたものだけが感じた特有の感覚であり、夏目漱石が生涯にわたって苦悩した難事だと考えられる。それは彼の著書を通して学ぶことができる。夏目漱石の代表作に「私の個人主義」というものがある。その本の一部ではこのように書かれている。「自己が主で、他は賓である。」この言葉を広義的に捉えると、自分の存在を尊重すると同時に、他人の存在を尊重することが重要であるということになる。そして、これは当時の社会に対する注意喚起のようなものとして捉えられる。西洋大国の経済発展に囚われ、統一性に欠け、世間体も気にせず、ただ目先の国々の文化を何の躊躇いもなく取り入れたことで大国になることはできたがその代償として、人々は苦悩や孤独感を抱えることになる。また「こころ」においては、乃木希典の殉死は明治の精神そのものを忠実に表した人物像であり、封建制や武士道精神といった個人主義とは真逆の考え方を物語に取り入れることで時代の移り変わりを見事に表現することができているのだはないか。利己的行動は人間の本質であり、それを抜きにして人間は成り立たない。しかし、時に利己的行動は自分を孤独感に陥らせる要因であることは、夏目漱石などの明治の時代を生きた知識人がもっとも身に染みて感じたことだったのではないか。
では、「こころ」を通して夏目漱石は何を果たしたかったのか?Kと先生の死因を考察しただけではその答えを突き詰めたことにはならない。しかし、孤独感というキーワードが本作に大きく影響していることは確実である。私たちは常日頃「孤独感」とは無意識のうちに対峙している。同じ世界には存在しているものの一人一人の精神世界は、共通点はあれど同一のものではない。先生がKの精神世界を理解し得ず、私が先生の精神世界を理解し得なかったように。それはつまり、人は皆誰からも理解されないような自分を持っているということである。「孤独」とは、克服すべき課題として度々一般化されるが、人間であるならば「心」を根源として、どの時代を生きようと知らず知らずのうちにkや先生のように心に宿しているかもしれない。他人が完全には理解し得ない心(夏目漱石においては孤独感が充満した明治の精神)を、どこかで理解してほしい、若しくはその心ごと葬り新しい時代に適合したという人間性こそがこの「こころ」という作品を形作った夏目漱石の思想であると私は考える。
高校3年男子生徒