人間は毎日、表現をする。例えば、家族と話したり、文章を書いたり、思い出を語る。私も表現をするので、表現の価値について考えてみた。
最初に表現とは何かについて考えてみた。表現とは自分の内から生じる考え方、感じたことを意識的に外に出すことである。表現には意図が必要となる。なぜなら、人間は生きるために必要な自然な表現と意識して外に出す表現を行うからだ。例えば、睡眠欲や食欲は生きるために努力や意識なしでも外に出せる。ただし、そこには意図的な意志がないので私が定義する表現にはならない。私が考える表現とは意識がともなった主観、意識を外に出すことである。
次に、人が表現したくなる理由について考えてみた。その理由は内側にあるものを外に出すことで表現に意味が生まれるからだ。その表現に加えられる意味とは人との繋がり、未来の可能性、そこから生まれる希望である。例えば、私は夏休みの体験を以下の様に随筆として書いてみた。
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今年の夏休みに、日本に帰りました。幼い時からの知り合いの友達と久しぶりに会いに行った。一年に一回ぐらいしか会えないので、会いにいく前は少し緊張していた。ただ、話し始めたら時間が経っていないみたいだった。いつもと同じ感じで話せたので嬉しかった。この嬉しさは、アメリカの友達からは感じられない感情だった。絆の強さに気づくと、嬉しさを感じる。時間が経つことは絆の強さを試すのではないだろうか。
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この様に内面にあるものを外に出して初めて他者と共有できる。その共有は友達といった関係を作り出す。関係を作ることによって新たな体験につながる機会を生み出す。そして、自分の世界が広がるという見通しを描ける様になる。今のSNSが使われている時代では、そばに人がいなくてもいつでもどこでも表現ができる。多くの若い世代がSNSに夢中になるのは、その世界に希望を求めているからなのかもしれない。
最後に、必ずしも他の人に触れられることはないけれど、表現する価値はあるのだろうか。その価値とは自分の変化と成長を確認でき希望をえられる。なぜなら、言葉として外に出しておくと過去の自分を残せる。そして、昔と今の自分を比べられる様になる。例えば、夏休みの体験を随筆形式ではなく日記として書いてみた。
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題:祖父母と私
夏休みに祖父母の家に行った。一年に一回会いに行くが、毎回、何かが変わっているのに気づく。私と祖父母のどちらも変わっている。この変化に気づくと悲しくなる。私が幼い時から毎年行っている場所だから、会いに行く度に懐かしくなる。家や街は変わらないけど人は変わった。小さい時から15年も経っているが、そんなに長くは感じない。家族や友達からは貰えない安心感を祖父母と時間を過ごすと感じる。祖父母との時間を大切にしなければいけないことに気づいた。
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この日記は必ずしも他の人が読むことはないかもしれない。その日記には、自分の考え、出来事を記録に残せる。その日記を読むのは、多くの場合自分だけだ。しかし、その日記を読んだ人は自分の今の姿と昔のすがとを比べられて成長を見つけられる。そして、その成長をみて人は希望を捉えようとしているのではないか。
表現をする価値は、考えと感情を外に出して意味を加え、希望と成長を作り出すことである。
中学3年女子生徒(アメリカ現地校在籍)