テストの比較から紐解く国語力
国語力とはなんだろう。それは生きる力でもあると思う。例えばある程度の国語力がなければコミュニケーションができないなど社会生活においてたくさんの問題が発生してしまうだろう。では国語力というのはそれ以外の生きる力を生み出すのだろうか。
では、各年代の教育で重視されているのはなんだろう。ここで、各年代のテストの比較をして何が分かるだろう。定期テスト、センター試験、記述二次試験、国際バカロレア試験を評価の基準で比較してみると例えば、中学校、高校で受ける定期テストや大学入試のセンター試験は明確にマル・バツをつけることができる。一方、記述二次試験や国際バカロレア試験などは人によって解答が変わるため、採点が難しい。つまり、基本的な教育制度では客観的な考えが重視され、それ以降では主観で物事が評価されるのである。
であれば、その義務教育などで重視される「客観性」というのは何なのだろうか。客観的とは誰から見ても、そうであるということだ。多くの人の考えを正解とする客観的な義務教育では常識やルールを学んでいるとも言えるだろう。つまり、義務教育は社会の秩序を守ることを目的としているのだろう。そしてそれは成功している。実際自主性を重視した教育のアメリカやイタリアよりも日本は何倍も治安が良い。
しかし、主体性をおろそかにした日本人は自分が生きる意味を見失うようになったと感じる。多くの日本人は人からどう見られるかばかり考えて自分を大切することを忘れてしまったのではないだろうか。
では、これから養うべき生きる力とはなんだろう。それは自分で喜びを生み出す力ではないだろうか。自分を大切に、自分で自分の機嫌をとること。それこそあなたがあなたの主観で生きていくということだ。
国語力というのは秩序を保つ上で必要な生きる力だった。それは今でも大切だ。それに加えて、これからは自ら喜びを生み出すための生きる力を国語力で養うことも大切である。
中学2年女子生徒