今回、私は文学作品を通じて作者の人間性を読み解くことに試みた。その作品とは、芥川龍之介の『蜜柑』である。

 物語の簡単なあらすじを紹介する。ある曇った冬の夕暮れにとある男(私)が一人、疲労と倦怠を身に纏いながら汽車に腰を下ろしていると、発車の直前に一人の小娘が走り込んできた。いかにも田舎者らしい小娘の全てを不快に感じている私は、存在を忘れるため夕刊を広げるも、まもなく汽車がトンネルに入ったため目を瞑りうつらうつらし始めた。数分が過ぎた後、目を開け、辺りを見渡すと、小娘が私の隣へ席を移していた。そして、トンネルに差し掛かっているのにも関わらず、あろうことか窓を開けようと試みていた。ついに窓が開き、煙を浴びせられ怒りが頂点に達した私は、小娘を叱りつけようとするも、その時、窓の外で三人の男の子がこちらに向かって手を振り何かを叫んでいるところを目にした。するとその瞬間、隣の小娘が窓から身を乗り出し蜜柑を五つ六つこども達に向かって投げたのである。私は直ちに、小娘はこれから奉公先へ向かおうとしていて、見送りに来てくれた弟たちに報いるため、蜜柑を送ったのだと理解した。これらの一瞬の光景を目にした私は、この時初めて、疲労と倦怠と、そして退屈な人生を忘れることができたのだ。

 文章を読み、文中の「私」は芥川自身のことだと感じたため、そうだと仮定した際、芥川龍之介とはどのような人間なのかを蜜柑から読み解く。まずは文章から、どのような人物像が読み取れるだろうか。何気ない人の温かさに触れただけで大きく感動をしていることから、彼は普段人の温かさを感じることが少ない人生を送っていると読み取れる。そのため彼は、人と関わろうとせず、常に暗い感情で物事を見ているのだろう。

 それでは、何気ない人の温かさで感動するとはどういうことだろうか。日常の小さな出来事から美しさを見出せる純粋な心も持っているということが言えるだろう。ただし、小さな温かさに反応するこの純粋さは、同時にそれだけ身の回りに温かさが少ないことを意味している。例えば、普段は何も考えずに通り過ぎている道だとしても、新しい建物が建つとすぐに気付く現象に似ている。

 そして、正反対なこれら二つの性格を持ち合わせているのは何故だろう。芥川は35歳で自殺しているということを含めて考えると、少年時代の彼は純粋な心を持って育つも、成長と共に人間の冷たさを目にし、明るく考えることが出来なくなったからなのではないだろうか。芥川は、暗い感情で出来ている今の人生が不可解な、下等な、退屈な人生だと感じていたが、汽車での経験までは自分のもう一つの性格を知らず、何をすればそれらが好転するのかを知らなかったのではないだろうか。つまり、芥川は小娘との出会いによって、自分でさえも知らなかった自分の奥底に眠っている、純粋で明るい一面に気づくことが出来たということである。

 最後に、芥川龍之介という人間は、周りの人間の暗い心に影響を受け自身も暗い人間になってしまったものの、本当は未だに本来の純粋な心を持っている人間なのだろう。そして、蜜柑の実体験を通して気付くことのできたこの、人生の鮮やかさを忘れないためにこの文章を書いたのだとと考える。

高校2年生男子生徒