フランス革命と明治維新の革命

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 1789年のバスティーユ襲撃に端を発したフランス革命は、ルイ16世を断頭台に送った。ヨーロッパ各国が革命の波及を恐れたという意味でも、これは歴史に残る重要な革命である。片や1867年に起こり、日本の近代国家を用意した明治維新の革命では、体制側の長である徳川慶喜は明治維新後も生き延び、公爵となり、76年の人生を全うした。この2人の運命の違いはなぜ起こったのか、考えてみた。

 結論は、両名の革命に対する姿勢にある。国民の信頼を得ることなく、自分たちの立場に安閑としていたフランスの国王と、機を見て敏なりとばかり我抵抗せずをいち早く態度で表明した将軍の差が彼らの行く末を決めたといえる。

 まずは当時の各国の状況を振り返る。1789年頃、革命前のフランスはアンシャンレジーム体制をとっていた。国王から順に、貴族、僧侶、農民・市民(第3身分)に階級が分かれており、特権階級の人々を第3身分(国民)が支えている状態であった。国民の負担は大きく、不満が高まっていった。自分たちが払った税金であんな豪奢なベルサイユ宮殿を作ったりして、許せない。一方1867年頃の日本では徳川慶喜による幕藩体制が継続しており、フランスと同様に将軍、武士、町人・商人・百姓と階級が定まっていた。黒船1隻が来てもまともに対処することができず、鎖国による国力の差は歴然としていた。西国の大名を中心とした武士たちは徳川家による体制に対して不満だった。それでは彼らを革命へと導いたものはなんだったのか。

 次に両国で革命が起こるまでの背景の思想に迫る。フランスでは王室による散財も原因の一つである財政赤字を立て直すため、王室は国民からの税金を頼りにしていた。これにより生活が苦しくなった国民の代弁者として、啓蒙主義のルソー、ボルテール、モンテスキューなどの哲学者が平等の大切さや、主権は国民にあることを示した。国民議会が設立され、最終的には国王を倒した。日本では島津斉昭、藤田東湖、山口容堂等により天皇を崇め、外国の勢力を追い出す尊王攘夷の思想が高まっていた。その思想に押されて薩摩・長州・土佐藩を中心とした外様大名達は立ち上がり、徳川慶喜を頂点とする幕藩体制を倒した。

 冒頭に述べたように両国は同じ革命の時代にありながら、体制側のトップであるルイ16世は断頭台に登る結末を迎え、徳川慶喜は生きながらえた。これには革命に対してそれぞれが取った態度が大きく関係している。フランス王室の一家は国民の怒りが高まり、革命が起きそうになる中でヴァレンヌ事件を起こし、国外逃亡を図った。結局は国民によりパリに連れ戻されてしまったが、国民の不信感をより強めた。またマリー・アントワネットはオーストリア出身であり、外国に情報を流しているのではと疑われた。しかし、徳川慶喜は1868年1月の鳥羽伏見の戦いに負けるとすぐに海路江戸へ戻り、寛永寺に籠り、謹慎した。逃亡はもちろん、抵抗する素振りすら見せなかった。最終的には革命の流れを受け入れ、静岡に隠居し、生涯を全うした。遠藤周作の「王妃マリー・アントワネット」に書いてあるように、国民の意見の移り変わりはとても早く、流されやすい。また国民が一致団結したときの行動力は凄まじく、暴力的にもなる。よって、主権を握る者の一時の行動が国民の意見を大きく左右することがあり、それがフランス王室と徳川慶喜の革命後に受ける待遇の違いにも関わっている。

 それにしても、昨日まで自国を代表する恐れ多い主権者として君臨し、曲がりなりにも国民から崇められたであろう王様の首をはねるのはあまりにも残酷な行為だ、やり過ぎだと反対意見を述べる人があるかもしれない。それに対する反論としては、王室を倒さない限り、国民の革命に対する熱量が冷めなかったことがある。先の作品中にもあるように、国民にとっての革命の終わりは、王室を完全に倒すことであった。王室を倒すまでにも、貴族の家を襲撃したりして、今までの苦労を贅沢三昧で暮らしをしてきた王室や貴族を倒すことで浄化させるような気持ちがあったのかもしれない。もし王室を倒さなかったら、国民の怒りの矛先がなくなり、暴動や国民同士での内戦が起きていた可能性もある。                                   

 別の考え方として、階級意識を取り上げたい。近代化をもたらした革命の登場人物の間には、異なる階級差が存在した。フランス国王と市民の間の立場も距離もあまりにもかけ離れていた。彼らの間に同族意識はなかった。他方徳川幕府を倒そうとした諸藩は元はといえば、将軍と同じ武士階級であり、儀のために憎み合うこともあったが、手を握ることもあった。この無意識の階級差感覚が運命を分けた。武士の情けにより将軍は生き延びたのではないか。

 フランス革命と相前後してギロチンが発明されたのは偶然であろうか。それは時代の要請だったのかもしれない。ルイ16世がギロチンのつゆと消えたのは訳あってのことである。日本の場合、革命側は天皇制を持ち出した。彼らにとっては天皇が頂点に立つような中央集権国家の成立が最優先事項であった。

以上

中学3年女子生徒