「こころ」先生はなぜ自殺をしたのか

 夏目漱石の「こころ」では語り手である青年(私)が先生との交流を通して、先生の過去を探っていく。手紙形式の筋立てが一種の謎解きのようで、興味深い。先生は物語の最後、明治の終わりと共に自殺してしまう。なぜ先生は自殺を決意したのか、先生の周りの人物との関係や出来事から推察し、その真相に迫る。
 それは己の欲望(恋)を満たそうとするエゴへの後悔であり、最良の伴侶に真の愛情を求めることができない孤独であり、拝金主義に対する嫌悪から来る人間不信である。
 初めに先生と友人Kとの関係について考える。
Kは先生とは幼い頃からの友達で、実家が寺だったため厳しい教育を受けて育った。それゆえに道の妨げになるようなものには近づかず、欲を離れた恋そのものでも道の妨げになった。単純で人が良すぎる、正直な性格だった。そんなKが養家を欺き、実家から勘当される。年月が経ち、先生は失意に陥ったKを救おうとするも、結果自分の欲を優先してしまう。Kの自殺後、自分勝手な行動が予期せずKの命を奪ったことを後悔したのが真っ先に挙げられる先生の自殺の原因だといえる。
 次に先生と奥さんの関係について考えてみる。
奥さんは素朴な人柄で、語り手が先生の家を訪ねたときも優しく対応し、先生との仲も良好に描かれている。そんな奥さんに対して先生は愛情を持っているが、奥さんはKの自殺の真実を知らない。先生が長年の友達Kを裏切った事実を先生は奥さんと共有できない。安心して心を委ることができるはずの人に慰めを求めることができないことも、自殺の原因と考えられる。
 最後に先生と叔父の関係である。
先生は二十歳で両親を亡くし、東京に出て学校へ通う予定で両親の死後、叔父と暮らし始める。その財産処理を叔父に任せていたが、後に叔父が遺産を横領していたことが発覚する。叔父は拝金主義の典型である。このことで先生は人間不信になってしまう。この人間不信が晩年の先生の孤独感を増幅させ、自殺へ追い遣ったと考えられる。私(語り手)が自分の父親の容態が悪いことを先生に告げると、先生は父親の死後の残余財産の処分について明確にしておくように忠告する。ここまでくると、これは人間としての倫理観の問題なのだ。
 先生が死んだ理由は明治の精神に殉死するからだと主張する人がいるかもしれない。先生は明治の精神を重んじているから殉死するのだろうか。これは残された奥さんや私に対する納得のいく理由づけだったのだろうか。もし過去の自分を裏切らず、人の命に関わる大きな後悔を背負うことがなければ、自殺までいかずに別の方法で自分の人生にも節目をつけたのではないか。明治の精神に殉死するというのは、説得力に乏しい。その考え方は自分がKを自殺させたという現実からの逃避であり、世間体を気にした言い訳であり、妻を清いままで生きさせてあげたいという自分自身への慰めである。
 先生はKの告白を聞いたとき、自分のお嬢さんに対する気持ちを彼に話さなかった。自分も同じ気持ちだと告げる勇気がなかった。さらに、お嬢さんとの結婚をその母親に申し入れたことを打ち明けなかった。自分の奥さんにKの自殺の理由の経緯などを長年説明しなかったことに責任を感じていた。先生の自殺の真の原因はエゴイズムに端を発する深い後悔、それを最愛の人と共有できない悲しみ、叔父との関係に起因する人間不信である。あんなに強いと思われたKとの絆(友情)も、そしてその友情を捨ててまで獲得した妻との絆(愛情)さえも、先生の孤独を癒すことはできなかった。

以上
中学3年女子生徒

【講評】瀬戸隆文
主人公である先生の自殺の原因を3つの視点から分かり易く、且つ鋭く分析している。物語の最後の部分で、明治の精神に殉死する先生の姿勢を現実逃避、世間体を気にした言い訳そして自分自身への慰めと、一刀両断に切り捨てている。読んでいて爽快な気分になるばかりの人間批判である。先生は孤独であった。Kの友情も、妻の愛情もその孤独を救うことができなかった。それが先生のエゴイスムから来ているという悲しさはどうしようもないものであり、それを見事に小説に仕上げた漱石には脱帽である。