希望を捕獲する -「蜜柑」芥川龍之介 を読んで -
今回、日本の文学を読む機会があり、芥川龍之介の「蜜柑」を読んだ。1919年に発売されたこの話は、ある冬の日に名の知らない男が汽車に乗り、不思議な小娘に出会う話である。その少女が、汽車の窓から、弟たちに蜜柑を投げて労を報いた出来事を通して、彼は人生に新しい希望を持つことになった。この本を読み私は次の問いをみつけた。作者芥川龍之介の伝えたかったメッセージとは?蜜柑は他人ではなく、作者が自分の人生にモチベーションを与える目的で書かれたのではないかと考察した。
蜜柑を読んだ時、芥川の描いた暗い雰囲気がとても印象的だった。それに加える少量の明るさのある部分を読んで私は思った。作者は希望と暗さとどのように関わっていたのか?と。彼は暗さが日常で、希望に親しくはない人生を送っていたのかもしれない。なぜなら、作者は明るさを表現したくないのではなく、表現ができないからではないか。例えば、最初に書かれている男の状況や小娘の外見、不快な行動などの暗さは、多くの文章で詳細に書かれている。その代わり、朗らかな明るい気持ちを表現している体験は、最後の方に、二文程度でしか書かれていない。
その様な状況にいる芥川がなぜこの話を書いたのかと自分に問い尋ねてみた。もしかしたら彼は希望をもたらす瞬間を捕獲したかったのかもしれない。先に述べたように、希望は芥川にとって初対面のような、新鮮で衝撃的な気持ちだったのではないだろうか。そして、それが作者にとって最後のチャンスだと捉えたと私は思う。たった二行でも、この珍しい気持ちを捕獲して、希望を取り戻そうとしたのではないか。
私にとって、蜜柑は芥川が言葉で希望を捕獲するために書いた作品。ある意味その希望は他人のためではなく自分の人生のモチベーションだと思える。題名の「蜜柑」は彼の「希望」なのかもしれない。
高校2年女子生徒(フランス現地校在籍)
[講評]
文学作品に粘り強く向き合い、要約、批評、段落設計作業に地道に取り組んでくださいました。伝えたい内容を的確に表す言葉を母語のフランス語、そして、日本語で探ろうとした努力を作品から感じて頂けることを願っています。